鳥瞰図一覧

大和宇陀郡神武天皇聖蹟御圖繪

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005524798.html
宇陀郡の神武天皇の関係だが、神武天皇が橿原宮で即位する前に宇陀郡あたりで戦った、らしい。図でいちばん目立つのが宇陀松山にある秋山城である。現代では松山城の名称のほうが通りがいいが、元々は国人秋山氏が築いた城で、秋山城と呼ばれていた。秋山氏が退いたあたりから松山城と呼ばれていたとのこと。江戸時代の藩の陣屋は城ではなく城下町に置かれており、その大手門にあたり西口関門も図に描かれている。また、高城を中心とした、ひらがなの名前が書いてあるところが、主に神武天皇に由縁がある土地だそう。「菟田(宇陀)の高城」や桜実神社はGoogleMapのスポットにも登録されている。八房杉は天然記念物に指定されており、現在でも存在するがだいぶ弱っているようだ。
あと、広域に目を向けると、田原本と桜井を結ぶ鉄道路線があったり、天理から法隆寺のほうまでつながっている鉄道路線があったりする。前者は大和鉄道、後者は大阪電気軌道法隆寺線で、近畿日本鉄道になる前の戦時に休止路線となり、そのまま廃線となっている。


吉田初三郎式鳥瞰図「北丹鉄道沿線名所案内」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004871364.html
北丹鉄道は1923年に開業して、1971年に休止、1974年に廃止となった、福知山から河守(今の大江)までを結んだ鉄道路線である。この図は1924年に作製されたとのことなので、開業して間もなく作られたものということになる。河守から宮津までは破線になっており、延伸する予定ではあったが北丹鉄道としては実現せず、宮福鉄道になって1988年になって宮津まで開業した。
名所案内とあるが、福知山の名所は鬼ヶ城と北丹鉄道株式会社本社しか描かれていない。河守付近の神社仏閣や発電所が多めに描かれている。今の京都丹後鉄道であれば、大江高校前、二俣、大江山口内宮と駅があるが、当時はそれらの駅がないので、鉄道のみで行くには行きづらい名所が多い。そして、天橋立など宮津方面の名所も描かれているが、おそらく河守から宮津までバスの便があったわけではなく、宮津まで行くのあれば国鉄宮津線を使う人がほとんどだったと思われる。


吉田初三郎式鳥瞰図「津市小觀」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005538079.html
1928年に作製された図で、今の近鉄名古屋線は伊勢鉄道として四日市~津新地が開業していた。名古屋までつながるのは関西急行電鉄に会社が変わった1938年のことである。また、新町から椋本、片田にも鉄道路線が伸びているが、これは安濃鉄道で1944年に不要不急線として休止し、1972年に廃止になっている。なお、片田支線が廃止されたのは1927年とのこと。岩田橋から久居を経て川口まで伸びているのは中勢鉄道で、1943年に廃止になっている。川口は今は名松線伊勢川口駅のある場所で、名松線が開通した1931年からは約10年間は乗換駅として機能していたという。紀勢本線は現在の路線と同じ状況であるが、当時は亀山から鳥羽までが参宮線だった。1959年に紀勢本線が全線開通して線区が改編されている。国鉄伊勢線、今の伊勢鉄道は1973年開業なので、当然この図にはない。
専修寺、観音寺、結城神社などの神社仏閣は現在も津を代表する神社仏閣として現存している。阿漕浦の海水浴場も現在は御殿場海水浴場という名前で現存しているようだ。阿漕は別の村かと思ったら、当時から津市だったようである。阿漕浦のあたりだと津興という地名になる。


吉田初三郎式鳥瞰図「織物と観光の都留市」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005937016.html
“都留市”と銘打っているだけあって、市制施行後に作られたものであり、比較的新しい。ただ、織物はわかるが、観光に関して言えば、都留市にはそんなに観光要素ないだろうとは思う。図を見てもあまり大きな観光地はないだろうと感じる。都留文科大学は当時は都留短期大学で、谷村町の駅前、今の市役所の場所にあった。逆に、今都留文科大学がある場所はなにも描かれていない。手狭になって移転したのだろうが、その後都留文科大学前駅までできるようになったのだから、発展したものである。
あと、小学校が逐一描かれているが、宝鉱山の近くに高畑小学校がある。宝鉱山は1970年に閉山したが、それまでは周辺に鉱山町が形成され、学校もあったということなのだろう。また他にも旧宝村域には平栗小学校があるが、現在ではともに廃校となり宝小学校に集約されている。旧盛里村には旭小学校、輿縄分校が描かれているが、こちらはどちらも廃校になっている。旭小学校は今年の3月までは存在していた。また、谷村第三小学校は今は都留文科大学附属小学校となっている。


吉田初三郎式鳥瞰図「佐渡商船會社航路案内」

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まず佐渡商船というのは1913年に設立された会社で、1932年に佐渡商船が新潟汽船、越佐商船を合併して現在まで続いている佐渡汽船に改称している。この図が作製されたのが1930年なので、この頃は新潟と佐渡を結ぶ船を運航している会社が3社あったことになる。その中でも佐渡商船は新潟-両津便と、直江津-小木-沢根便を運航していた。佐渡から直江津に行く便は夜行便だったようである。
今の佐渡の一大観光スポットといえば佐渡金山であるが、当時は相川鉱山として普通に稼働しており、わりと淡々と描かれている。また相川には佐渡支庁が描かれている。元々相川には相川県庁があり、郡役所もあり、佐渡の中心ではあった。佐渡支庁は1985年に廃止されている。佐渡金山もそうだが、現在では佐渡の観光要素であるトキも当時はそこまで珍しくなかっただろうし、ジェンキンスさんもいないし、小木のたらい舟もあっただろうが観光資源とはなっていなかった模様。当時の図で紹介されている佐渡の観光地は神社仏閣が多い。


吉田初三郎式鳥瞰図「武州松山附近名所圖繪」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005529201.html
東武東上本線武州松山駅が開業したのが1923年、この図が作製されたのが1926年である。東松山駅になったのは松山町を中心として東松山市が市制施行した1954年なので、当時は武州松山という呼び方が一般的だったのだろう。
“附近”というだけあって松山以外の名所もあり、けっこう離れている今はときがわ町の慈光寺まで載っている。ただ、当時は八高線も開業しておらず、松山から慈光寺がある西平まで乗合自動車の便があったというので、”附近”という感覚だったのだろう。なんだかんだ言っても中心にあるのは箭弓稲荷神社である。現在でも東松山を代表する名所である。
東武東上本線は池袋から寄居まで駅が載っている。膝折、川越西町、的場、坂戸町、菅谷は今の朝霞、川越、霞ヶ関、坂戸、武蔵嵐山。鶴瀬は何故かひらがなで書いてある。寄居は寄居町と書いてあるが、このあたりはだいたいということか、小川町に引っ張られたか。


吉田初三郎式鳥瞰図「上信電氣鉄道沿線名所案内」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005516737.html
上信電気鉄道、今の上信電鉄の沿線の名所が描かれている。作られたのは大正十三年、ということは1924年。1921年に上野鉄道が上信電気鉄道に改名している。この頃はまだ信州への延伸計画が生きていた時代である。
図を見ると、まず現在よりも駅の数が少ないのに気がつく。これは省略して描かれているのではなく、当時はこの駅数だった。1930年前後にできた駅が多い。また、現在の沿線の最大スポットは富岡製糸場ということになるが、図では「原製糸場」とあっさり描かれている。当時は単なる工場だったということか。ただ富岡自体も「上信電鐵沿線第一の都邑」と説明されているわりには、それらしい描写は図にはない。大きさで言うと、貫前神社が目立つ。もっとも上野国一宮なので、この扱いは妥当ではある。他に目立つのは上野三碑で、現在でもわりと名所の扱いになっているが、当時も名所として扱われている。下仁田には蒟蒻畑が描かれているが、葱畑はない。


吉田初三郎式鳥瞰図「石田家鳥瞰圖」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005529078.html
まず石田家とは何ぞや?ということになるが、八戸は鮫にあった旅館で、村次郎という地元で活動していた詩人が経営していたことで知られているという。村次郎を訪ねて多くの著名な文化人が訪れたそうだ。現在は建物も残っていないとのこと。図が作られた頃、村次郎は子供ではあるが、当時から著名な旅館だったのだろう。
図を見ると、八戸駅から湊駅に支線が伸びている。八戸駅は現在の本八戸駅であるが、湊駅は1944年まで旅客扱いをしていた。その後貨物専用になるが、1985年に完全に廃線となっている。また、蕪島まで橋が架かっている。現在は陸続きになっているが、1942年に海軍が2年がかりで埋め立て工事を行い現在のかたちになったとのこと。更に言うと、1934年に開業した長苗代、小中野、白銀駅が描かれていない。陸奥湊駅から磐城セメントまでの専用線が開通したのが1928年だというので、その間に作られた図ということになるか。
館鼻公園が海に面した公園となっているが、現在は埋め立てられて海には近いがほぼ面してはない。また白銀海水浴場もあるが、現在は海水浴ができるような海ではない。あと、尻内、古間木、三本木、毛馬内と言った古い駅名があったり、尻内から五戸まで伸びている南部鉄道があったりするのが目につく。新潟まで描かれているのはご愛敬である。


吉田初三郎式鳥瞰図「江部乙町」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005529052.html
江部乙町は1971年に滝川市と合併されて自治体としては消滅しているが、今でも市街としての規模は残っている。1952年に江部乙村が町制施行されて江部乙町になっており、その直後に作られた図のようだ。
図でまず目につくのは、石狩川を渡る伏古渡。渡った後の道が雨竜のほうに伸びている。1958年に江竜橋が架橋されたことで渡しが廃止になったとのこと。あと、小学校がいくつかあるが、今は江部乙には一つしか小学校がないようである。あと高校も図にはあるが、今はない。逆に道央自動車道は今はあるが、図にはない。高速道路ができたのは1989年で随分後の話である。また、江部乙町外のことになるが、滝川と砂川の間空知太という駅があるが、これは国鉄になる前の北海道炭礦鉄道時代の1898年に廃止された駅で、図が描かれた当時にはなかったはずの駅である。


Googleストリートビュー企画と新企画二種

Googleストリートビュー企画は今年で三年目だが、今年以降は月に一回の更新とする。
また、今年から新企画を行う。一つ目は吉田初三郎鳥瞰図データベースに掲載されている鳥瞰図に言及する企画。二つ目は私が2008年から2010年にかけて行った路線バスで関東一周の旅を今行うとするとどうなるか、を検証する企画。合わせて三つの企画を月に一回づつ、だいたい10日、20日、30日頃に更新していく。