鳥瞰図一覧

吉田初三郎式鳥瞰図「馬のみやこ七戸町」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005533526.html
馬のみやこと名乗っているが、七戸には江戸時代から続いているとされている盛田牧場(2006年に閉場)や、奥羽種馬牧場(現・家畜改良センター奥羽牧場)など、馬産地としての施設が多数あったことでのこの名乗りである。
この図は1934年に作製されたものということで、1962年開業の南部縦貫鉄道は描かれていない。1922年開業の十和田鉄道(後の十和田観光電鉄)は描かれている。当時は軌間が762mmであった。七戸では乗合自動車が通じていて、三本木、野辺地、乙供、沼崎(現・上北町)、千曳から乗合自動車の便があると記されている。
馬に関連する施設が多数描かれているが、他の名所で目立つのは街中にある柏葉城址、七戸城であり、現在でも整備された場所になっている。あと、岳八幡宮は七戸町西端の山の中にある神社で、南部地方の山岳にある神社の中でも有数の神社であったという。参拝するのは登山というレベルになるが、それ故に登山者のサイトで八幡岳に登って岳八幡宮を訪れている人の記事が多数見つかった。


吉田初三郎式鳥瞰図「湯川根崎温泉圖繪」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005533310.html
去年の今頃このあたりに行ったのであった。今は根崎も湯の川温泉の一部になった感があるが、当時は併称されていたようだ。根崎温泉の説明として明治後期の話として「当時は未だ一定の道路さえなき辺鄙の漁村」だったが、湯量が増加して設備が整い賑わい始めた、とある。湯川温泉は明治31年から馬車鉄道が開通しており、だいぶ差ががあったようだ。
この図は1928年に作製されたものであるが、当時はまだこのあたりは湯川村であった。そのため役場が記載されている。1939年に湯川村は函館市に編入されている。1913年に函館馬車鉄道を買収した函館水電が路面電車を走らせており、その路面電車も記載されている。東雲線やガス会社前方面など今では廃止となった路線の記載もある。遊園地前という電停があるが今の函館アリーナ前電停であり、明治初期まで湯川遊園地が存在したが、函館大火により再建できず放置されたとのこと。電停自体も一旦廃止になるが、1983年に市民会館前電停として再開業している。その他湯川温泉付近は色々と施設があるが、根崎温泉にあるのは自動車発着所、水産事務所、地引網のみである。やはり漁村の色合いが濃い温泉街だったということか。


吉田初三郎式鳥瞰図「延岡名所圖繪」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004827077.html
1923年に作製された図で、日豊本線全線開通の折に作製されたとある。1923年12月に市棚・重岡間が開業し、豊州本線と宮崎本線が統合して日豊本線となっている。図でも門司から大淀(今の南宮崎)まで線がつながっている。このときは、小倉から吉松までが日豊本線で、1932年に現在の日豊本線が全線開業している。
延岡で言うと、高千穂線の前身の日ノ影線が1935年に部分開業しているので、この図には記載されていない。延岡藩主の家筋である内藤氏の人が題字を書いたからか、延岡城の目立つところには「内藤家」と書かれている。あと「新市街」というのが気になる。今で言うと新町のあたりか。ただ、延岡の名所よりも高千穂の名所のほうが数多く描かれている。延岡(厳密には合併前の岡富村)にあるはずの東臼杵郡役所は描かれておらず、高千穂の西臼杵郡役所は描かれている。
日豊本線が開通したてということで、この頃はまだ船の利用も多かったのだろう。佐伯から蒲江、古江、土々呂、細島、内海を結ぶ航路が描かれている。


吉田初三郎式鳥瞰図「阿波鉄道」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005744578.html
阿波鉄道はWikipediaでは阿波電気軌道の名前で項目がある。1926年に阿波電気軌道から阿波鉄道に名前が変わっている。この図が作製されたのが1931年のことである。1933年には国有化されて国鉄阿波線となり、その後の国鉄高徳本線、鳴門線、鍛冶屋原線の元となっている。阿波電気軌道という名前だが電化はされず蒸気動力で動いていたとのこと。
徳島側を見ると、中原から新町橋までは白い線と船の絵が描かれている。こちらは徳島まで鉄道を延伸したかったものの、吉野川架橋の資金を捻出できずに徳島中心部までは渡船連絡を行っていたとのこと。かつてはその先の富田橋まで運航していという。新町橋だと国鉄徳島駅とは若干距離があるが中心部には相違ない。また、古川と徳島の間にバスの絵が絵が描かれている。こちらは1928年に吉野川橋が架かり当初は阿波鉄道が、1929年からは徳島市営バスがバスを運行していたものになる。この頃には阿波鉄道の駅から徳島中心部に行くのに二つのルートがあったことになる。なお、船のほうは国有化されたときにも吉野川連絡船として引き継がれたが、1935年に廃止になっている。
鳴門側を見ると、撫養から岡崎までバスの路線がある。こちらは阿波鉄道がバスを運行している。廃止時期は不明だが、この頃はまだ阿波鉄道自体がバスを運行していたのかもしれない。本来は岡崎まで鉄道を敷く計画であったとのこと。
引田まで鉄道が伸びたのが1928年のことで、高徳本線全線開通まで香川県から徳島県を結んでいたのは船ということになる。引田、鳴門、福良等を結ぶ航路が描かれている。また、四国らしく一番から十番の札所がちょうど沿線にあり描かれている。


吉田初三郎式鳥瞰図「簸上鉄道沿線案内」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005538350.html
簸上鉄道は今のJR木次線である。簸上鉄道は宍道から木次までの区間で1916年に開業、1932年に国鉄木次線が木次から出雲三成まで開業し、1934年に簸上鉄道が国有化している。その後、1937年に木次線が備後落合まで開業し今のかたちになっている。簸上鉄道は木次線延伸のための貨物輸送でも収入を増やしたという。
文章によると、木次から今の飯南町を経由して三次に至る路線と、大東から今の奥出雲町を経由して庄原、三次に至る路線の定期自動車があったという。自動車の絵が描いてある。木次は西に寄っているので、大東からまっすぐ三成を経由して庄原方面に至る路線が設定されていたようだ。また、名所のいちばん最初に記載されているのが赤川蛍。観蛍列車も走っていたらしい。そして、海潮温泉、鬼の舌震、龍頭の滝、湯村温泉と続く。
簸上鉄道沿線外では、今の出雲市駅が出雲今市駅になっている。出雲今市駅を起点とした一畑電気鉄道立久恵線は1932年開業で、この図は1930年に描かれたものなので、当然記載はない。今の出雲大社前駅も当時は大社神門駅になっている。1944年に休止された一畑までの路線は記載されている。一畑口駅は当時は小境灘駅である。


吉田初三郎式鳥瞰図「大和宇陀郡神武天皇聖蹟御圖繪」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005524798.html
宇陀郡の神武天皇の関係だが、神武天皇が橿原宮で即位する前に宇陀郡あたりで戦った、らしい。図でいちばん目立つのが宇陀松山にある秋山城である。現代では松山城の名称のほうが通りがいいが、元々は国人秋山氏が築いた城で、秋山城と呼ばれていた。秋山氏が退いたあたりから松山城と呼ばれていたとのこと。江戸時代の藩の陣屋は城ではなく城下町に置かれており、その大手門にあたり西口関門も図に描かれている。また、高城を中心とした、ひらがなの名前が書いてあるところが、主に神武天皇に由縁がある土地だそう。「菟田(宇陀)の高城」や桜実神社はGoogleMapのスポットにも登録されている。八房杉は天然記念物に指定されており、現在でも存在するがだいぶ弱っているようだ。
あと、広域に目を向けると、田原本と桜井を結ぶ鉄道路線があったり、天理から法隆寺のほうまでつながっている鉄道路線があったりする。前者は大和鉄道、後者は大阪電気軌道法隆寺線で、近畿日本鉄道になる前の戦時に休止路線となり、そのまま廃線となっている。


吉田初三郎式鳥瞰図「北丹鉄道沿線名所案内」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004871364.html
北丹鉄道は1923年に開業して、1971年に休止、1974年に廃止となった、福知山から河守(今の大江)までを結んだ鉄道路線である。この図は1924年に作製されたとのことなので、開業して間もなく作られたものということになる。河守から宮津までは破線になっており、延伸する予定ではあったが北丹鉄道としては実現せず、宮福鉄道になって1988年になって宮津まで開業した。
名所案内とあるが、福知山の名所は鬼ヶ城と北丹鉄道株式会社本社しか描かれていない。河守付近の神社仏閣や発電所が多めに描かれている。今の京都丹後鉄道であれば、大江高校前、二俣、大江山口内宮と駅があるが、当時はそれらの駅がないので、鉄道のみで行くには行きづらい名所が多い。そして、天橋立など宮津方面の名所も描かれているが、おそらく河守から宮津までバスの便があったわけではなく、宮津まで行くのあれば国鉄宮津線を使う人がほとんどだったと思われる。


吉田初三郎式鳥瞰図「津市小觀」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005538079.html
1928年に作製された図で、今の近鉄名古屋線は伊勢鉄道として四日市~津新地が開業していた。名古屋までつながるのは関西急行電鉄に会社が変わった1938年のことである。また、新町から椋本、片田にも鉄道路線が伸びているが、これは安濃鉄道で1944年に不要不急線として休止し、1972年に廃止になっている。なお、片田支線が廃止されたのは1927年とのこと。岩田橋から久居を経て川口まで伸びているのは中勢鉄道で、1943年に廃止になっている。川口は今は名松線伊勢川口駅のある場所で、名松線が開通した1931年からは約10年間は乗換駅として機能していたという。紀勢本線は現在の路線と同じ状況であるが、当時は亀山から鳥羽までが参宮線だった。1959年に紀勢本線が全線開通して線区が改編されている。国鉄伊勢線、今の伊勢鉄道は1973年開業なので、当然この図にはない。
専修寺、観音寺、結城神社などの神社仏閣は現在も津を代表する神社仏閣として現存している。阿漕浦の海水浴場も現在は御殿場海水浴場という名前で現存しているようだ。阿漕は別の村かと思ったら、当時から津市だったようである。阿漕浦のあたりだと津興という地名になる。


吉田初三郎式鳥瞰図「織物と観光の都留市」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005937016.html
“都留市”と銘打っているだけあって、市制施行後に作られたものであり、比較的新しい。ただ、織物はわかるが、観光に関して言えば、都留市にはそんなに観光要素ないだろうとは思う。図を見てもあまり大きな観光地はないだろうと感じる。都留文科大学は当時は都留短期大学で、谷村町の駅前、今の市役所の場所にあった。逆に、今都留文科大学がある場所はなにも描かれていない。手狭になって移転したのだろうが、その後都留文科大学前駅までできるようになったのだから、発展したものである。
あと、小学校が逐一描かれているが、宝鉱山の近くに高畑小学校がある。宝鉱山は1970年に閉山したが、それまでは周辺に鉱山町が形成され、学校もあったということなのだろう。また他にも旧宝村域には平栗小学校があるが、現在ではともに廃校となり宝小学校に集約されている。旧盛里村には旭小学校、輿縄分校が描かれているが、こちらはどちらも廃校になっている。旭小学校は今年の3月までは存在していた。また、谷村第三小学校は今は都留文科大学附属小学校となっている。


吉田初三郎式鳥瞰図「佐渡商船會社航路案内」

https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/002463024.html
まず佐渡商船というのは1913年に設立された会社で、1932年に佐渡商船が新潟汽船、越佐商船を合併して現在まで続いている佐渡汽船に改称している。この図が作製されたのが1930年なので、この頃は新潟と佐渡を結ぶ船を運航している会社が3社あったことになる。その中でも佐渡商船は新潟-両津便と、直江津-小木-沢根便を運航していた。佐渡から直江津に行く便は夜行便だったようである。
今の佐渡の一大観光スポットといえば佐渡金山であるが、当時は相川鉱山として普通に稼働しており、わりと淡々と描かれている。また相川には佐渡支庁が描かれている。元々相川には相川県庁があり、郡役所もあり、佐渡の中心ではあった。佐渡支庁は1985年に廃止されている。佐渡金山もそうだが、現在では佐渡の観光要素であるトキも当時はそこまで珍しくなかっただろうし、ジェンキンスさんもいないし、小木のたらい舟もあっただろうが観光資源とはなっていなかった模様。当時の図で紹介されている佐渡の観光地は神社仏閣が多い。