鳥瞰図一覧

吉田初三郎式鳥瞰図「日名子旅舘御案内」

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日名子旅館は安政年間に府内屋として創業し、別府で最も古い旅館と言われている。のちに日名子ホテルとなったが、1985年に倒産し廃業している。
1926年に作製された地図ということで、鉄道は既に敷かれているが名前は豊州本線である。浜脇は今の東別府である。やがて大分交通別大線になる路面電車、九州水力電気も走っている。地獄も描かれており、今井地獄など今は休止しているも描かれいる。
日名子旅館はこの図の主役だけあって大きく書かれている。テニスコートや玉突場(ビリヤード場)もあった。あと、通信用の伝書鳩を飼っていたという。旅館の平面図もあるが、大浴場がなく小さな湯殿が複数あるような作りになっている。今で言うと家族風呂が多数あるような旅館だったようだ。


吉田初三郎式鳥瞰図「室戸岬案内 : 日本八景 : 室戸岬案内鳥瞰圗」

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日本八景というのは1927年に新聞社主導で決定された八つの景勝地で、日本三景や富士山などは除外されている。室戸岬、十和田湖、温泉岳(雲仙岳)、木曽川、上高地、華厳滝、別府温泉、狩勝峠がそれにあたる。この図が作製されたのが1936年でその頃は日本八景は通じるものだっただろうが、現在では日本八景を知る人はほとんどいないであろう。
室戸町と津呂に、大阪、甲浦、高知方面への航路が出ている。当時は道路事情もよくなかっただろうから、船が主要な交通機関だったのであろう。今は航路は無くなっている。室戸町は1910年に町制施行、津呂町は1928年に町制施行し、1929年に室戸岬町に改称している。当時は二町あわせて人口18000人以上いたが、現在では他二村と合併した室戸市の人口で10000人未満となっている。
室戸岬ホテルというホテルが描かれているが、現在このあたりには岬観光ホテルというホテルがある。建物は1933年に建てられホテルとなったのが1935年、登録有形文化財に指定されている。描かれている絵が現在の岬観光ホテルの姿に似ており、岬観光ホテルの前身が室戸岬ホテルということなのかもしれない。


吉田初三郎式鳥瞰図「木ノ江町鳥瞰圖」

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木ノ江町は1920年に町制施行し、1943年に木江町に改称している。現在は大崎上島町の一部となっている。海上交通の要衝として栄えた場所であるが、図に描かれている木ノ江町の施設は、木ノ江港、逓信省海事部庁舎、町役場、警察署、郵便局、小学校、のみである。各地への船便として、尾道、広島、竹原、今治、松山への便が書かれているが、現在残っているのは竹原、今治への便となっている。私は2014年に白水港近くで自転車を借りて木江に来ている。かつて遊廓が並んでいたという街並みはなかなかディープな雰囲気を醸しだしていた。


吉田初三郎式鳥瞰図「赤穂鉄道沿線圗繪 : 義士発生の遺跡」

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赤穂鉄道は有年駅と播州赤穂駅を結んでいた鉄道である。1921年に開業した。1951年12月に今のJR赤穂線が開業することになり、赤穂鉄道は廃線となった。赤穂鉄道播州赤穂駅は今のJR播州赤穂駅よりも南側にあったという。
図は1928年に作製されたものである。赤穂といえばご存知忠臣蔵。当時は今よりも忠臣蔵のご存知度は高かったはずで、”義士発生”と当たり前のようにつけている。目立っているのは浅野家、大石家、四十七士の墓所がある花岳寺、大石内蔵助、四十七士を祀っている大石神社である。南側には加里屋城址がある。裏側の説明には赤穂城址、即ち加里屋城址と記載されており、当時は加里屋城の名前も通っていたということか。今ではほぼ赤穂城址と呼ばれている。
有年から赤穂までは赤穂鉄道で35分ほどだったとのこと。また、海路で赤穂へアクセスする方法もあり、赤穂の町の最寄り港であった新浜港も図に描かれている。
塩田が広範囲に描かれているが、1971年に赤穂の塩田は廃止されている。


吉田初三郎式鳥瞰図「橋北汽船案内」

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橋北汽船の詳細が不明なのだが、この図が作製された1924年に宮津と橋立、伊根を結ぶ航路を運航していたようである。橋立は今の江尻渡船場のあたりか。宮津から橋立まで十余往復、伊根まで四往復していたようだ。天橋立はもちろんのこと、傘松や成相山など今でも名所となっている場所が描かれている。
宮津では島崎遊園地が描かれているが、これが今の島崎公園になる。また、新浜遊郭は「縞の財布が空になる」とも言われるくらいの殷賑を極めた場所であった。
鉄道は舞鶴方面から「文殊」まで伸びているようにも見えるが、実際は1924年の時点では宮津まで開業している。翌1925年には峰山まで開業し、豊岡までつながるのは1932年のことである。豊岡までは省略され、城ノ崎までが点線で描かれている。また、宮津から海を越えて清津までの航路が描かれている。清津は今の北朝鮮にある都市で、日露戦争を機に港湾が整備されたとのこと。


吉田初三郎式鳥瞰図「武生」

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1933年に作製された図である。北陸本線の他に南越鉄道、福武電鉄の駅がある。福武電鉄は福井鉄道福武線として現存している。南越鉄道は後の福井鉄道南越線で武生から粟田部を通って戸ノ口までを結んでいたが、1981年には全線廃止となった。戸ノ口から鯖江まで延伸する計画もあったとのこと。南越鉄道の北府駅は今の福井鉄道の北府駅とは別の駅で、図中の西武生駅が今の北府駅とのこと。
1929年に建てられたという公会堂はこのときは建ってから4年だが、100年近く経った今でも建物が現存して、実際に見に行った。また大井デパートは福井県で二番目にできた百貨店ということで、今では大井洋装店としてその建物が残っている。公会堂と大井デパートの真ん中あたりに町役場があるが、今の福邦銀行武生中央支店あたりになるか。


吉田初三郎式鳥瞰図「相模鉄道沿線案内」

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先日、相模線に乗ってきたので。ここでの相模鉄道は現在のJR相模線で1944年に国有化されている。相模鉄道自体は現在でも存在している”あの”相模鉄道である。相鉄本線は元々神中鉄道の路線で1943年に相模鉄道が合併している。この図では黒い線で雑に描かれている。
相模鉄道の駅としては、橋本、作ノ口、相模横山、上溝、原当麻、下溝、座間新戸、本座間、上今泉、厚木、社家、門沢橋、倉見、宮山、寒川、香川、茅ヶ崎とあり、作ノ口は上溝と南橋本にあった駅で今はない。相模横山が今の上溝、上溝が今の番田である。座間新戸は今の相武台下、本座間、上今泉は廃駅となっている。廃駅となった駅は、現在も復活を求める声があるとのこと。あと、寒川支線も描かれており、四宮が終着となっている。1984年まで営業していた西寒川駅は寒川と四宮の中間に作られた駅となる。元々相模鉄道は相模川の砂利を輸送することが主な目的で、図にも砂利採取船、砂利ポケット積が描かれており、裏の説明にも砂利採取場についての記載もある。相模鉄道自体が砂利採取事業を行っていた。その砂利の積み込み駅が四宮であるが、1944年に廃止となっている。
先日行った八景の棚も載っているが、当時のほうが景色がよかった名勝だったのだろう。他にもいくつか名所が描かれているが、やはり沿線一の名所となると寒川神社となるか。


吉田初三郎式鳥瞰図「南總鉄道沿線御案内」

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南総鉄道は1930年に茂原から笠森寺の間を開業した鉄道である。1939年に奥野まで延伸したが、1944年には廃止となっている。元々は鶴舞までつなぐ計画であり、奥野まで行くと鶴舞まではあと少しの距離なのだが、資金難ということでそれも及ばず十数年で全線廃止となっている。
作製された年は不明だが路線が笠森寺までになっているので1939年以前ということか。駅から実際の笠森寺までは一丁(100m)なので近い。今も笠森にはバスが通っていて笠森寺へのアクセスに使えるが本数は一日一本しかないようである。あと藻原寺という駅もある。茂原公園の近くで、ここには茂原駅から歩いて行ったことがある。たしかに多少距離があった。茂原の市街地はこのあたりまであるので、駅から市街地間を移動する短距離区間の利用も多かったと思われる、
笠森から破線が鶴舞町まで伸びているが、これは今の上総鶴舞駅で1958年に改名している。鶴舞と書かれた場所が本来の鶴舞の中心地である。鶴舞は廃藩置県の短い間だが鶴舞藩の藩庁が置かれた要所である。市原女学校は市原郡立市原実科高等女学校のことで、後に千葉県立鶴舞桜が丘高等学校になったが2019年に廃校になっている。


吉田初三郎式鳥瞰図「東根温泉案内」

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図の作者も発行者も作製年も不明であるが、東根温泉は1910年の開湯で、それより二十数年後にこの図が作られたとある。おそらく東根温泉の組合が発行したものだろう。図には旅館が多数描かれているが、今でもその名前のままで残っているのが青松館である。温泉湧出の翌年である1911年に創業したとある。また、嵐湯、櫻湯、本郷館は名前を変えて残っているようである。さすがに旅館の数は当時よりも減っている。また山下食堂は現在でも営業中である。100年以上続いている食堂ということになる。
「日本一ノ大欅」は今では東根の大ケヤキと呼ばれているようだが、東根のシンボル的存在になっている。神社仏閣、公園などは今でも残っているが、スキー場、スケート場は廃業した模様。


吉田初三郎式鳥瞰図「水澤」

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https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004842050.html
1937年に作製されたもので、水沢は当時は胆沢郡水沢町である。発行所は岩手縣観光協會膽江支部であり、水沢を中心とした胆沢郡、江刺郡について記載された図となっている。蘇民祭が開催されていたことで知られる黒石寺も元々江刺郡黒石村である。
今でもあるのが水沢競馬場だが、現在は北上川の近くにあるが、図では水沢公園の南側にある。1965年に移転したとのこと。現在は住宅街になっているようだ。緯度観測所がある場所は現在は水沢VLBI観測所となっている。1899年に設置されている。ただ、水沢自体にはそれほど名所はなく、ゆかりの人物は高野長英、後藤新平、斎藤實がいるが、生家などが軽く紹介されているのみである。現存している記念館等は当時はなかったのであろう。