鳥瞰図一覧

東根温泉案内

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https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/006125785.html
図の作者も発行者も作製年も不明であるが、東根温泉は1910年の開湯で、それより二十数年後にこの図が作られたとある。おそらく東根温泉の組合が発行したものだろう。図には旅館が多数描かれているが、今でもその名前のままで残っているのが青松館である。温泉湧出の翌年である1911年に創業したとある。また、嵐湯、櫻湯、本郷館は名前を変えて残っているようである。さすがに旅館の数は当時よりも減っている。また山下食堂は現在でも営業中である。100年以上続いている食堂ということになる。
「日本一ノ大欅」は今では東根の大ケヤキと呼ばれているようだが、東根のシンボル的存在になっている。神社仏閣、公園などは今でも残っているが、スキー場、スケート場は廃業した模様。


吉田初三郎式鳥瞰図「水澤」

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https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004842050.html
1937年に作製されたもので、水沢は当時は胆沢郡水沢町である。発行所は岩手縣観光協會膽江支部であり、水沢を中心とした胆沢郡、江刺郡について記載された図となっている。蘇民祭が開催されていたことで知られる黒石寺も元々江刺郡黒石村である。
今でもあるのが水沢競馬場だが、現在は北上川の近くにあるが、図では水沢公園の南側にある。1965年に移転したとのこと。現在は住宅街になっているようだ。緯度観測所がある場所は現在は水沢VLBI観測所となっている。1899年に設置されている。ただ、水沢自体にはそれほど名所はなく、ゆかりの人物は高野長英、後藤新平、斎藤實がいるが、生家などが軽く紹介されているのみである。現存している記念館等は当時はなかったのであろう。


吉田初三郎式鳥瞰図「躍進の岩見澤市」

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1950年に作製された図とのこと。岩見沢は1943年に市制施行している。
幌内線や万字線など廃線となった鉄道路線が描かれている。幌内線は大部分が岩見沢市外だが扱いは大きい。札幌には定山渓鉄道も描かれている。
目立つのが玉泉公園で当時は鉱泉が湧き旅館もあったとのこと。今では玉泉館跡地公園となっている。その近くには東山スキー場があるが今はない。今はこのあたりに道央自動車道が通っているが、当時はない。岩見沢市の人口も最近は減少傾向だが1950年よりは多く、当時は鉱山などがありその近くに住む人が多かったが今ではその地域の住民が大幅に減っているので、中心部や近郊に住んでる人は多く市街化が進んでいるのだろう。


吉田初三郎式鳥瞰図「天下無二耶馬全溪の交通圖繪」

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耶馬溪も一回行きたいと思っているが行けていない。耶馬溪と言っても範囲が広いので、それを総称する意味で耶馬全溪という言葉を使っているようである。中津から守実まで伸びているのは耶馬渓鉄道で、後に大分交通耶馬溪線となるが、1975年に廃線となっている。守実まで行くともう中津よりも日田のほうが近い。日田の描き込みは簡素だが、英彦山は詳細まで描かれている。
大貞公園にある競馬場は2001年に廃場になっている。公園も今はダイハツ九州スポーツパーク大貞というような名前になっている。洞門から守実までの間が耶馬渓の範囲ということになろうが、20Km以上の距離があり、名所も散らばっている。現在線路の跡はサイクリングロードとなっている。行くならやはり自転車で、となるとあまり年をとらないうちに行かなければいけない。耶馬溪線が残っていればまだ行きやすかったのだが。


吉田初三郎式鳥瞰図「飯塚市」

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この図は1933年に作製されたものである。飯塚駅の隣に芳雄という知らない駅があるが、これが今の新飯塚駅である。飯塚駅は1893年に開業しているが、芳雄駅は1902年に貨物駅として開業、1920年に旅客化し、1935年に新飯塚駅に改称している。この頃は飯塚駅が飯塚市の代表駅だったと言えるが、市役所の移転などもあり、今では実質的に新飯塚駅が市の代表駅となっている。ただ市の中心部にいちばん近い交通ハブは「自動車中央停留所」であり、これが今の飯塚バスターミナルの位置となっている。幸袋線の二瀬駅もわりと扱いが大きく描かれている。
全体的に製鉄所、炭坑、鉱業所の記載が多い。長尾駅が今の桂川駅だが、篠栗線が開通する前なので博多に出るには原田まわりで行くことになっている。今は廃止となった鉄道路線は多数描かれている。


吉田初三郎式鳥瞰図「石崎汽船航路遊覧名所案内圖繪」

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石崎汽船は現在は広島と松山を結ぶ船を運航しているが、この図が作製された当時は尾道と松山を結ぶ船も運航しており、これが東京・大阪と松山を結ぶ最短ルートと紹介されている。どちらにせよ四国へは船に乗らないと来られない時代である。尾道便が、宮浦(大三島)、木江(大崎上島)、御手洗(大崎下島)、高浜、三津浜と寄港し、広島便は吉浦、鯛、音戸(倉橋島)、高浜、三津浜と寄港している。
石崎汽船が松山の会社ということで図では松山の記載が詳細になっている。1965年に廃止となった伊予鉄道森松線も描かれている。予讃線は松山までの開業となっている。それより先に伊予鉄道郡中線が開業している。高知までの道路に乗合自動車の絵が多数描かれている。当時は高知の鉄道は県内で完結していたので、乗合自動車が県外に出る主要な手段だったのだろう。また、大三島の扱いが大きい。大山祇神社などかなりの巨大神社になっている。


吉田初三郎式鳥瞰図「天下之絶勝三段峡」

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この図は小山吉三という人が作製したようだ。作製年は不詳だが、「広浜電車」の記載されているので1931年~1936年ということになる。1936年に今の可部線が国有化されている。当時は鉄道が可部まで伸びており、三段峡へは自動車を使っていくことになっている。三段峡駅まで伸びたのは1969年のことである。その後、浜田まで延伸する計画だったがそれは未遂に終わり、2003年には可部から三段峡の区間が廃線となっている。
広島から三段峡までは3時間ほどかかっており、日帰りで行けなくはないが、一泊したほうがいいと書いてある。図だと柴木と書いてある場所が三段峡駅があった場所だと思われる。そこまでは自動車が乗り入れている。ここまでは現在もバスが通じている。また北側は南口と北口が通じる自動車の便があると記載されているので、樽床のあたりまで自動車で乗り入れられたと思われる。こちらは現在ではバスの便はない。そもそも南側から北側に抜ける道が法面崩壊ということで通行止めとなっている。三段滝より北が行けなくなっている。復旧時期は未定だという。現在はこの図に描かれている景勝地っぽいところの半分くらいは行けないようになっている。


吉田初三郎式鳥瞰図「連邦平和都市綾部市」

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連邦平和都市って何ぞや、と思ったが、実際に綾部市は1950年に日本で初めて「世界連邦都市宣言」を行っている。そしてこの図が作製されたのは1950年である。その翌年の1951年に吉田初三郎が死去している。吉田初三郎の鳥瞰図は戦前に作られたものが多いが、この図は最晩年に作られたものということになる。
旅館が多数描かれているが、萬家旅館、現長旅館は現在も存在する。また、丹波ラインが景勝地として紹介されていて丹波ライン遊園地なるものもあったようだが、今はその残りは無く、インターネット上にも情報がなかった。また、綾部といえばグンゼだが、郡是製絲として描かれている。郊外にある波多野記念碑はグンゼ創業者波多野鶴吉を顕彰した碑である。波多野鶴吉は戦国武将の波多野氏の子孫でもある。また、新宗教の大本の発祥地で、図にも大本の施設が描かれている。


吉田初三郎式鳥瞰図「合同電車沿線御案内」

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https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004930194.html
合同電車とは今の伊勢市で運行していた路面電車である。この図は1931年に作製されている。1930年に三重合同電気が合同電気に社名変更、1937年には合同電気が東邦電気に合併されている。最終的には三重交通神都線となり、1961年に廃止となっている。
山田駅前が起点となっている。現在の伊勢市駅で1959年に改名された。三重交通神都線の駅も伊勢市駅前に改名されたようである。本町と前田との間で線路が分岐しているが、上りと下りで経路が違っていたという。外宮から内宮の順番に参拝するということで、外宮前から内宮前行きの電車に乗れるようになっていたようだ。参宮電車前駅は今の近鉄宇治山田駅の前にあり、当時は参宮急行電鉄の駅となっている。また、楠部から山の上まで線路が延びているが、これが朝熊登山鉄道となる。大げさなくらい急に描かれていて東洋第一の称があるケーブル線と書かれているが、実際勾配が最も急な箇所は652パーミルで、少なくとも日本の鉄道の中では歴代最急勾配路線となっている。現存している日本の最急勾配路線は高尾登山鉄道の608パーミルである。更にケーブルカーの山上駅から金剛證寺まではバスの便が出ていたとのことである。今は五十鈴川駅前から金剛證寺まで土日祝日のみだが伊勢志摩スカイラインを経由するバスが出ている。


吉田初三郎式鳥瞰図「北陸靈刹那谷寺」

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https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005533328.html
先日行ってきた那谷寺である。発行所は「那谷寺々務所」とある。電話は「那谷二番」一番は交番とか郵便局とかだろうか。なおこの図を作製したのは芦原温泉の城下豊栄で、吉田初三郎ではない。また、ふりがなは「なたじ」となっている。今は「なたでら」と読ませている。
粟津から那谷寺を経由して大聖寺まで行く電車が走っている。当時の温泉電軌、後の北陸鉄道の加南線である。那谷寺駅もあり、現在は北鉄加賀バスのバス停となっている。那谷寺からは少し離れており、正直何故寺の前までバスが乗り入れずこんな中途半端なところにバスがあるのかと思ったが、元々駅があった場所だったのだ。鉄道が廃止されて、那谷寺から山代温泉のほうに抜けるバスがあったのだが、今では那谷寺から山代温泉まではバス空白地域になっている。CANBUSという加賀温泉近辺を周遊する観光用バスはあり、こちらは那谷寺の前にバスが停まる。那谷寺の敷地内は今とあまり変わらないが、一つだけ違いがあるのが大プールの存在である。裏の説明書きには「大プール遊園地」があるとのみ書かれている。プールと言ってもボートが浮かんでいることから泳ぐプールではなく池があったということなのだろう。そうであれば、今でも那谷寺の奥のほうに大池があるので、当時はそこにボートがあったり遊興施設があったりしたのかもしれない。